ギンイロノナミダ - Essay

Essay

84. Another Story 第一部

(この話はフィクションです)


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「あ…。」

「ん…?」

「…雨…降ってきた…。」

「…そっか…。」

浩介はサイドテーブルに置いた携帯電話を確認する。午前2時38分。そろそろ帰らないと、とは思うけど雨が降り出したことを考えると少し億劫になった。着信履歴やメールを確認したけれどまだ1件も連絡がない。ということは彼女もまだ夜遊びの最中ということか。こちらから連絡を入れてみようか。でもどうせ反応はないのだろう。それなら知らないフリをしておくのが得策か。服を着たまま横になっていたベッドから身を起こし、梨紗の座るソファの後、床に直接座る。

「そういえば、今、雨、降りだした…って。」

「うん、ずっと外見てたから…。」

そっと梨紗の肩越しに窓の外を見る。雨がガラス窓を濡らし、けして多くない街の灯かりが滲んでいる。星空でも、せめて月でも輝いていれば、そしてもう少し「夜景」と呼べるものであれば、ずっと外を見ていたという梨紗の気持ちを理解できるのかもしれない。けれど、部屋は暗いオレンジ色の光でぼんやりと照らされているだけ。お互いの表情すら近づかないと分からない部屋でずっと外を眺めていたという梨紗。

…あぁ、そうか。だから、か…。

浩介は急に梨紗を理解したような気がした。でもきっと「気がした」だけ。浩介は梨紗にはなれないし、梨紗の本当の気持ちなんて100%理解できない。けれどこの瞬間、浩介は梨紗の気持が自分の中に飛び込んでくるような感じがした。けして表に出さない梨紗の気持ち。一度全てを晒け出そうとしたけど、咎められて隠した浩介の気持ち。重なることは分かっているのに、重なることのない二人。

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「しまばらこーすけー!」

騒がしい店内によく響く、自分の名前なのに聞きなれない声。そもそも僕のことをフルネームで呼ぶ奴なんて知り合いには皆無だ。こんな狭い店内でそんな大きな声出さなくても、と声のした方に振り向こうとしたとき、脇腹に一撃。

「あははははっ!ごめーん、しまばらこーすけ!脇が甘いぞ!」

片手に持った缶ビール飲みながら同じ年であろう女性がすぐそばにいた。いい感じにほろ酔いを少し過ぎたくらいだろうか。えーと、誰だっけ。顔は見覚えあるんだけど、と言っても高校時代の同級生の女子に知り合いなんてほとんどいない。共学校なのに男子が多いからって男子クラスなんてのがあった文武両道を謳う学校で、何の因果か3年間男子クラスだった僕に、女子の知り合いなんて同じ部活のマネージャーくらいのもんだ。そのマネージャーでもない。ということは同学年でも目立っていた女子ってことになるけど。

「…あの、間違ってたら悪いけど、ひょっとして水泳部の麻木さん?」

「えー!覚えててくれたの?嬉しいなあ島原浩介くん!どう飲んでる?」

恒例の同窓会。参加する予定ではなかったんだけど、久しぶりに帰省した悪友、昌樹が「ひとりで参加すんのヤだから一緒に来てよ。俺お前しか知り合いいねーし。」なんて言うもんだから渋々参加したんだけど、その昌樹は知り合いが僕しかいないにも関わらずいつしか身に付けていた社交性を思う存分発揮していて、もう会場のどこにいるのかすら分からない。結局知り合いがいないのは僕の方だったらしく、同じように手持ち無沙汰の同級生と他愛もない話でビールを流し込んでいたところだった。そこに脇腹への一撃とともに現れた麻木さんに少し感謝というか、正直「ホッ」とした気持ちになった。

「うん、飲んでるけど。で、なんで麻木さん俺のことフルネームなのよ。」普通に考えれば島原くんでいいんじゃないの?と言いかけたときまた脇腹に一撃。なんだこの暴力女。笑ってるし。

「いや、だって、島原浩介って名前、言いやすいじゃん!それに『島原くん』だと他の島原くんに間違えられちゃうじゃん!」

「…俺以外に島原っていなかったはずだけど。」また脇腹。

「細かい!そんなことどうでもいいじゃん!さ、飲も!かんぱーい!」 缶を軽く合わせて、僕と言えばそんな麻木さんにたじろいでいて。仕方ない。またいつもの奴でいくか。社会人になってから身に付けたスキルがきっと役に立つさ。

「で、島原浩介くんはなんであたしのこと覚えてたの?好きだった?」

「いや、だって、水泳部の麻木さんでしょ?俺らからすりゃアイドルだったもん。スクール水着とは違うかっこいいヤツ着ててさ、バサロでグイグイ泳いだり、というか、バタフライのあの蝶のような華麗なフォーム、というか。」

「なにそれー!あたしフリー専門!島原浩介くん、あんた適当過ぎだよー!」

「あ、そうなの?でも競泳用水着だっけ?あの水着に収まった形のいいお尻に男子どもは夢中だったんだぜ?知らなかっただろ?」

「知らないよそんなもん。どうせそれも適当でしょ?そもそもうちの学校、プールなくて市営プールで練習してたのに、あたしの水着姿なんて見たことないでしょうに。」

「さすが名探偵、よく分かったね。とりあえず、乾杯。」

麻木さんが水泳部だったという1つだけの情報でそれを適当に膨らませて、誇張して、適当な作り話。相手を傷つけることはせず、自分の自虐ネタを織り交ぜ、その結果周りが笑ってくれるなら僕はそれでいい。麻木さんはよく笑ってくれる。ちょっとサービス過剰だったかな。でも、この場限りの適当さが僕にはちょうどいい。

こうすけー!と僕を呼ぶ声がした。ようやく昌樹が僕を見つけてくれた。おう、今行く。と手をあげ、「じゃ、また。」と麻木さんを隣で笑ってる同級生に任せて席を立った。どうした昌樹?いや、浩介、聞けよ、この子もバツイチだってさ。お?バツイチ同盟結成じゃね?…そんな不毛な会話に巻き込むなよ、と思っても適当に話を合わせる。そうだ、今夜はずっと適当だ。卒業して就職して20年以上経つというのに何も成長してない。ウソと適当さで世渡りが上手くなっただけに過ぎない。そんなまともなことすら考えたくない。僕は残ってたビールを思い切り流し込んだ。

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不惑を過ぎても浩介は自分というものがよく分からない。小さいころは明確な目標があった。野球選手だったりパイロットだったり、その夢は年齢や環境や自分の興味でその都度変わっていったが、教師になりたいという目標を定めたのは確か中学生の頃ではなかったか。当時の担任の先生に憧れて、という至極単純な動機ではあったけれど、当然のように自分は数年後には教師になって教壇に立っているんだとイメージするようになっていた。

1学年1クラスの小さな小学校、中学校に通っていた浩介は、教育熱心というより息子の成長が楽しみで仕方がないというような両親に幼いころから勉強に関するものは、それほど裕福な暮らしではなかったとしても、十分に与えられていた。浩介もそれが当然のように勉強を重ね、百点を取った答案は誇らしげに両親に見せた。そして両親はそれをとても喜んでいた。いつしか百点が当たり前という考えになっていた浩介は教室で女の子に軽口を叩いた。100点なんて普通に勉強してれば当たり前のことだよと。浩介本人は本当に軽口のつもりだったが、思いの外その子には堪えたらしく、しばしの沈黙の後猛烈な非難が返ってきた。なによ、あんなたんて勉強しかできない、人の気持ちなんて全然理解できない、嫌味の皮をかぶったロボットじゃない。

浩介は急に怖くなった。他人の気持ち?自分ではそれなりに理解しようとしていた。それでもそれは全て自分に置き換えたとき、自分がされて嬉しいことや嫌なことを参考に考えた理解だ。けして「その人」を理解しようとしてないことに初めてその時に気付いた。じゃあどうすればいいんだ。自分も傷つけず、他人も傷つけず、そんな生き方をこれからしていかなくてはならないのか。そんな面倒なことはごめんだ。それなら、相手の気持ちに沿うような言動をしよう。人に好かれる行動をとればいい。それはとても自分にも他人にも無責任な生き方かもしれないけど、それで周りが笑っていられるのならばそれでいい。それから浩介はより明るく振舞い、その人がその時に「言ってほしい言葉」を投げかけ「してほしい行動」を心がけるようになった。

当然そんなことを続けていれば歪みも生まれてくる。大学のサークルで初めて後輩というものができた。親元を離れ毎日に不安を抱えた後輩の立花由香と付き合い始めるのにはそんなに時間はかからなかった。不安につけこんだ、と言われればそれまでだが、その瞬間瞬間はちゃんと由香のことを好きでいたし、大学を卒業したらこのまま結婚までするんじゃないかとまで考えていた。当然由香にはそんなことは言わなかったが、いつかはそんな日が来るのではないかと思っていた。ところが次の年の4月。同じように不安を抱えた後輩、窪田美江が新入生として入ってきた。浩介は由香にも、同郷で同じ方言をしゃべれるというだけで纏わりついてきた美江にも同じように「言ってほしい言葉」や「してほしい行動」を重ねた。浩介本人はただ相手の望むままの行動をとっただけだ。一緒にご飯を食べよう、うちに来てと言われれば由香の部屋に行き、そして朝まで過ごすこともあったし、センパイ、ちょっとお酒付き合ってほしいと美江に言われればビール片手に美江の部屋に行くこともあった。若さゆえの過ちという言葉で片付けられればそれでいいのだろうが、浩介は「同時」に「別の女性」を「同じよう」に愛することが苦ではなかった。しかしそれは浩介本人が苦にならないだけの話であり、サークル内では後輩を二人も食った悪い男という噂が立った。本人にその気はなくとも周りからはそう見られていた。由香や美江との仲も気まずくなり、サークル内での立場もなくした。もちろん、サークル内では2人だけだったが、バイト先で仲良くなった、旦那に不満をもっていた主婦ともそんな仲になっていたのは誰にも知られていなかった。

サークルもやめ、そして大学もやめた。すべてを引き払って実家に戻ってきたのは浩介が23歳になる年だった。両親は期待に応えられなかった息子を腫物を触るように扱った。大学を留年して中退。夢だった教職にすら就けず、普通の会社への就職すら難しいだろうと判断した浩介は試験さえ通れば何とかなるのではと公務員試験を片っ端から受けた。元来勉強だけはできる浩介は難なく試験をパスし、地元の町役場で働き始めた。バブル経済が弾け、そろそろ不景気の波が日本に覆いかぶさろうとしていた。

浩介は当時を振り返る。就職して2年、両親や仕事のプレッシャーから解放されて夜な夜な遊びに出かける日が増えた。行きつけのバーもでき、飲み仲間もできた。一人出かけても店に行けば知り合いに会えた。遅くまで飲んで騒いで、翌日仕事なのに朝まで飲むこともあった。すでにバブル景気は弾けていたが、今考えるとあれが浩介の中のバブル景気だった。

そんな飲み仲間の一人が沢田瑶子だった。

瑶子はいつも場の中心にいて、明るく大きな声でよく喋る子だった。その快活で誰とでも分け隔てなく付き合える瑶子を委員長みたいだなと浩介は思った。女子からも男子からも教師からも好かれる、真面目だけど少しお調子者な委員長。誰に聞いたわけでもないが、おそらくその場にいた男たちはみんな瑶子を狙っているのだと思っていた。しかし、瑶子は特に決まった相手がいる風な素振りを見せることもなく、男たちのさり気ない誘いを上手く躱していた。最初の頃、浩介はそんな瑶子たちの仲間を遠くで眺めているだけだったが、瑶子がこちらで一緒に飲みませんか?と声をかけてくれたことがあった。ただ、浩介は他人と付き合うことに疲れていたこともあって、仲間たちから半歩下がって、曖昧に笑いながら飲むのが常だった。それでも瑶子は会うたびに、一緒に飲まないかと誘ってくれるほど気を配ってくれた。

その日、浩介はカウンターでひとりジンバックを飲んでいた。するといつも数人で連れ立ってくる瑶子がひとりで店に入ってきた。瑶子は浩介を見つけるとマスターにウォッカトニックを頼み、浩介の隣に座った。

「珍しいね。今夜はひとり?」

「うん、みんなね、今夜から海に行くんだって。雄二ってわかるかな?いつもテキーラばっかり飲んでる奴。その雄二が福間の海岸沿いに店出したって言うからさ、みんなで朝まで開店祝いだー、なんて言っちゃってさ。あたしも行きたかったけど、生憎と明日の朝仕事でさー。」

「そっか、そりゃ残念。。。えーっと、明日のお昼からなら行けるんだ?」

「そうなんだけどさー。誰も迎えに来ちゃくんないだろうしねー。」

「俺、明日休みでさ、ちょっと海でも見に行こうかと思ってんだけど…よかったら一緒にどう?」

「えーっ?…でもいいの?」

「一人で行くのも二人で行くのも同じでしょ。仕事場どこだっけ?」

「新宮高校のすぐそばだけど。」

「なんだ、うちから福間までの通り道じゃん。全然問題ない。」

「じゃあ…Pick Me Up?」

そこから明日どこで待ち合わせしようか、雄二の店なんか行かなくても海があればいいよ、そろそろ桜も見頃だよね、見に行かない?なんて話が盛り上がって、お互いの電話番号を交換して「じゃ、あたしそろそろ帰んなきゃ。寝坊しちゃいけないし、明日はちょっと気合い入れたお化粧しなきゃだし。」と言い残して瑶子は帰って行った。去り際の背中が嬉しそうに見えたのは酔いのせいだと思っていた。浩介は瑶子を見送ったあと、ギムレットを頼んで煙草に火を着けた。深く吸い込んで吐き出す。吐き出したのは煙だけではない。自分のやってしまった行為についての溜息だった。落ち込んでいた瑶子を喜ばせようと、ただそれだけのために予定にもないことをさも以前から決めていたかのように。別に海は嫌いじゃないけど一人で春先の海を眺めるほどの酔狂さは持っちゃいない。そのことにさえ瑶子は気づいていないはずだ。まあ、別に瑶子と付き合うわけではない。ただ海を見に行くだけだ。そう割り切って浩介はギムレットを飲み干した。

翌日、朝から降っていた雨は昼前には上がった。浩介は約束通り車を走らせ待ち合わせの場所で瑶子を乗せた。オートマのミニワゴン。男性が運転するには少しばかりかわいい車だが、瑶子は「色がいいじゃん、やっぱ青っていい色だね。」と褒めてくれた。

4月になったばかりの海はまだ風が冷たく、今朝までの雨の影響か少し濁っていて、浩介は生まれ故郷の宮崎の海が恋しくなった。やはり太平洋側と日本海側の海の色は違うな、なんてぼんやりと煙草を咥えたまま砂浜に座って海を眺めていた。瑶子はそんな浩介の傍に座るでもなく、同じようにぼんやりと海を眺めていた。こんな冷たい海でもウインドサーフィンをしている連中がいる。彼らは身体が冷たいと感じる不快感よりもサーフィンを上手く操る達成感の方が上位にあるのだろうか。それとも冷たい海の中にいることが快感に変わるのだろうか。昔、寒稽古という名の下雪が降る中をランニングしたり、早朝の冷たい体育館の床に裸足で剣道をしたりしたけど自分の望まざる状況に置ける達成感なんてこれっぽっちも感じなかった。ただこの時間が早く過ぎてほしい、それだけを願っていた。いつもそうだ、嫌なことがあるとただ黙って、嵐が通り過ぎるのを待つ。嵐が通り過ぎた後にはきっと晴天が待っていると考えていた。いつも晴天ばかりではなかったけれど、それでもこれまで生きてきた。少し煙草が苦い。

考え事をしていたらいつの間にか30分ほど一人で座っていた。そろそろ昼飯でも食いにいこうかと瑶子に声をかけようと辺りを見回すが姿が見えない。浩介は慌てて立ち上がり瑶子を探すべく駐車場へ向かった。すると自販機の前で屈む瑶子をみつけた。浩介は「ホッ」とした。ほっとした後になぜ自分がほっとしたのか、それが分からなかった。ここまで連れてきた責任?彼女のことが気になる?他人の気持ちが分からないのは変わらない。自分の気持ちさえ分からない。結局相手に嫌われぬように所作を繰り返す浩介は自分の本当の気持ちにさえ気付かなかった。

瑶子は振り返って浩介を見つけると少しはにかんだ笑顔で一本差し出した。

「えっと、はい、コーヒー。どんなのが好きか分かんなかったけど、お砂糖は2つだったよね?」

人が恋に落ちる瞬間を見たことがある人間はそう多くないと思う。一目惚れはあったとしても、そこから恋に落ちるまでには時間が必要だろう。浩介は一目惚れを信じてはいない。一目でその人を好きになり付き合いたいなどと思うことはなかった。しばらく話をしてその人の人となりを知って、感性が似ているか、共感できるものはあるのか、同じ景色を一緒に見たいと思うかなど、数々の条件をクリアして初めて人と人とは付き合うものだとそう思っていた。そう、コーヒーを差し出した瑶子の笑顔を見るまでは。

浩介にとって瑶子はよく店で会う飲み仲間で、今日はたまたま落ち込んでいる瑶子を励まそうと海まで連れてきただけで、別に付き合いたいとか、一緒にいたいとかそんなことを思って今日の予定を決めたのではない。むしろ、海に行きたそうな瑶子が「してほしい行動」「言ってほしい言葉」を浩介が取ったに過ぎない。なのに、あの笑顔はずるいや、と浩介は思った。

缶コーヒーを受け取った浩介は、これからどうしようか、よければメシでも食いに行かないか、いや、腹が減ってればだけど、それともお茶の方が、と、女の子を誘い慣れてないしどろもどろな調子で瑶子を誘った。そんな浩介に瑶子は吹き出しながら「うん、ご飯、行こう。」その後「…あたし、飲んでもいい?」とさっきの笑顔で聞いてきた。

ロードサイドの適当に入ったレストラン。お昼を過ぎたせいか客は疎らで、浩介たちは窓側の席に通された。向かい合って座るとなんか照れくさい。瑶子も同じことを考えているのか、「何か飲まないと調子狂っちゃうね。」と笑いながらビールを注文した。

食事をしながらいろんな話をした。そういえば瑶子がどんな仕事をしているのかとか浩介が自分の仕事のこととかまともに話すのはこれが初めてだった。浩介は自分を知ってもらいたいと思った。そして瑶子のことをもっと知りたいと思った。瑶子は翻訳家を目指して、会社勤めの合間を縫って学校に通い、日々勉強していると言った。浩介は素直に凄いと思った。そして自分を恥じた。就職して以来、自分は何かに情熱を傾け努力してきただろうか。瑶子の情熱に比べ自分の中の熱はなんと冷たいことか。何事かを始めようと、何かに向かってまっすぐに努力してみようと思った。それが今は何かは分からないけど、瑶子の情熱に肩を並べることができたら、瑶子と同じ景色を見ることができるかも知れない。この気持ちをなんと表現すればいいのか分からないけど、おそらく一番近い言葉は「恋」だと浩介は思った。

「それでね、昔留学してたんだけどね、来月からまたアメリカに留学しようと思ってるんだよね。」

「…え?」

「うん、留学。1年、ひょっとしたら3年くらい?今その準備で大変でさー。会社の方も手続きが面倒でねー。」

「え、ちょ、ちょっと待って。本当に留学するの?しかもそんなに長く?」

「そうだよー。でも3年なんて短い方だよー。さっと行ってさっと勉強してさっと翻訳家になれればいいんだけどねー。」

「…そっか…そうだよね…。うん、頑張ってきなよ。応援してるから。」

好きだと告げることなく恋が終わる。始まりを迎えられなかった恋。浩介は落胆を悟られぬようトイレに立つと深い溜め息を吐いた。

洗面台で顔を洗い頬をぴしゃりと叩く。けして落胆を悟られてはいけない。残念そうな顔は封印だ。せめて笑顔で見送ろう。そう決心して席に戻ると瑶子はなぜか身体をくの字に曲げさもおかしそうに声を抑えて笑っていた。あっけにとられる浩介。

「…あの、どうしたの?なにかあった?」

瑶子は笑うのを止め、と言っても止まりきることはなかったが、ようやく浩介に向き合って口を開いた。

「あのさ浩介、今日何の日か分かってる?」

「へ?」

瑶子は目尻に涙さえ浮かべている。

「今日は、4月1日、エイプリルフール!留学なんてウソだよ。」

「…は?…はぁっ!?」

結局瑶子にしてやられたのだ。この状況でウソだなんて考えもしなかった。

「いやーあそこまで真剣に信じてもらえるとはねー。ウソついた甲斐があったってところだけどちょっとやりすぎちゃったかな?ごめんね。」また笑顔。

つられて浩介も吹き出した。すっかり騙されたのに悪い気はしなかった。むしろそんな作り話を信じてしまった自分がおかしかった。ついでに言えば、自分の気持ちの行き場がまだ残されたことに安堵した。

「えっとさ、この後、予定ある?よければ、桜、見に行ってみない?」

道に迷いながら辿り着いた先は絶景の夕日が見えるポイントだった。「もう二度と来れないよこんなとこ。」なんて苦笑しながら二人で夕焼けに散る桜を眺めてた。もう二度と来れないかも知れないけど、浩介は思った。また来年、瑶子とこの桜を、この景色を見たいと。

瑶子を自宅近くまで送って、降り際に「あ、ちょっと…。」と言いかけたが、「いや、なんでもない。また。今夜、電話してもいい?」と尋ねると瑶子は笑顔でOKをくれた。手を振りながら去っていく瑶子を見送って、浩介は車を走らせた。

その夜、浩介は12時を待って瑶子に電話を掛けた。それは4月1日、エイプリルフールが終わったその瞬間に、自分の本当の気持ちを伝えたかったからだ。浩介にとって何の打算もない、ただ瑶子に好きだと告げるための電話。もし、上手くいかなきゃ行きつけの店が一つ減るな、くらいのことは思ったかもしれない。けれどそんな心配は杞憂だった。むしろ「もう、浩介はニブチンだよ。」と瑶子が拗ねるくらいに。瑶子は、しきりにアプローチをかけていたのに気付いてくれなかった、ようやく告白された、待ってた甲斐があったと笑っていた。

(第一部・完)

(2014.9.22?2014.10.2)