ギンイロノナミダ - Essay

Essay

85. Another Story 第二部

(この話は現実を基にしたフィクションです)


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浩介は自分の名前を書いて印鑑を押した後、目の前に座る無表情の女に目をやった。コイツ、こんな顔してたっけな。喜怒哀楽の表情はよく目にしたけど、無表情を見るのは初めてに近いな、なんてことを考えていた。女はペンをとり、お世辞にも綺麗とは言えない、それでも丁寧な字で自分の、もう二度と名乗ることのない「島原敦美」の氏名を書いて印鑑を押した。たったこれだけ、薄っぺらい紙切れ一枚で浩介と敦美の結婚生活は終わった。浩介は眼を閉じ、半年前の華燭の宴を思い浮かべた。あの日、一生愛すると誓ってサインをした二人が、今こうして別々の道を歩くためにまたサインをするってのは傍から見ると滑稽かもしれないな。


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遥子と見たあの桜を、翌年一緒に見ることは叶わなかった。少しずつお互いの気持ちがずれ始め、まだ桜が咲く前に浩介と遥子は別れを決めた。まだお互い好きな気持ちが残っているうちに、嫌いにならないように、これからの道を別々にお互いに頑張ろうと話し合って決めた。待っていれば心変わりもあるかもしれない。また元鞘に納まることもあるのかもしれないけれど、遥子がいつか別の誰かと一緒に過ごし始めるかもしれない、浩介はそれが怖かった。

その怖さから逃げるように、浩介はジムへの入会を決めた。怖いのは自分が弱いせいだ、少しでも身体を鍛えれば心も強くなるのではないか、そんな考えからだった。

しばらくは知り合いもできず、一人でただひたすらにプログラムをこなす日々だったが、そのうち休憩所での顔見知りも増えてきた。いつの間にか友達になって、じゃあ今日のプログラム終わったらご飯食べにでも行きましょうと誘われた。数人で連れ立って軽く飲みながら話をしていたら同じ市内、しかも自宅が近い女性と意気投合した。彼女は牧山敦美と名乗った。2歳年下の背の低い敦美を浩介は妹みたいだと思った。


ある休みの日の午後、自宅でぼんやりと録画していた映画を見ていた浩介の携帯電話が震えた。先日メールアドレスを交換した敦美だった。

「ヒマですか?」

『うん、天気がいいくせに自宅でぼんやりしてるよ。どっか出かけようかと思ってたんだけど。』

「じゃあ一緒に出かけませんか?」

『いいよ。これから出るけど大丈夫?』

「ハイ。待ってます!」

浩介はひとつ溜息を吐いて腰を上げた。また、やってしまった。別に出かける用事なんてない。映画はつまらなかったので、それはどうでもいいんだが、また、相手の望みそうな言葉を紡いで、自分を良く見せようとしている。ま、別に敦美とどうこうってことはないだろう。車のキーを掴むと浩介は家を出た。

出かけた先は福間の海岸。遥子と初めて見た海をまた見たかっただけなのかもしれない。まだ忘れられてないのか。5月の海は日差しが強く、春先の鈍く光る海とはまた異なり、間もなく訪れる夏を心待ちにしているようだった。海が見える喫茶店に入り、お茶を飲みながらお互いのことを話す。最初はクールな印象だった敦美だが、くるくると表情を変える姿が猫みたいで、浩介は敦美のいろんな表情がもっと見てみたいと思った。日も暮れ始め、夕焼けが海岸を包み始めた頃、浩介は夜景を見に行かないかと提案した。ウチの近所なんだけど、誰にも教えていないすごい穴場があるんだ、と。「うん、行ってみたい!」もちろんその返事を期待していた。

本当に穴場の夜景。周りに明かりがないので足元が暗いけれど、それでも携帯電話の明かりでなんとか歩いて、市街地を見下ろす場所に出る。

「ね。意外と近場でもちゃんとした夜景でしょ?誰にも教えないでよ。」と軽口を叩いて敦美を見ると、瞳を輝かせて夜景を見下ろしていた。浩介の胸の奥で何かが音を立てた。こんなとき、どう行動して、どんな言葉を言えば良いのか。浩介にとってそれは当たり前の行動で当たり前の言葉だった。後ろから優しく敦美を抱いて、「好きだ」と囁いた。もちろん、敦美の気持ちを悟った上での行動だ。自分に好意を向けていることは分かっていた。それに気づかないふりをすることも当然できた。けれど、このタイミングでこの行動をするべきだと、自分の中の本能がそうさせた。

抱きしめられた敦美は少し体を硬直させ、でも次の瞬間には浩介の腕と胸に体を預けた。窮屈そうに振り向くと浩介の唇に唇を重ねた。それが敦美の返事だった。


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車に戻ると敦美は先ほどより激しく唇を、そして舌を絡めてきた。辺りは真っ暗で、二人の鼓動と唾液を交換する音が狭い車内に響く。浩介の手が敦美の胸へとのびる。最初は優しく、そしてだんだん激しく、ついにはブラの中に手を入れる。敦美の胸の先を指先で弄ぶように触ると敦美はたまらず声を上げた。

「…ね、浩介…ここじゃ、狭いよ…。ホテル…行こ?」

浩介はその言葉を聞いて、より激しく敦美の舌を求めた。左手で彼女の頭を優しく撫でながら、右手はスカートの中へ、そして柔らかい場所を下着の上から軽くなぞる。下着の上からでもわかるくらいそこは湿り気を帯びていた。


出会ったその日に身体を重ねるなんて、少し前の浩介にしてみれば別になんでもないことだった。特定の相手も作らず、飲みに出た先で出会った女と気が合えばすぐに寝た。名前も連絡先さえも知らない。その方が楽だった。相手もそう思って浩介と寝たのだろう。ところが今回はそうはいかない。名前も連絡先も住所でさえ知っている相手だ。責任、という言葉が浮かんだけれど、いつものようになんとか誤魔化せるかもしれない、そう考えた。浩介は敦美から腕を解き車のエンジンをかけた。左手をまだ敦美の太腿の間に挟まれたまま、頭の中で近くのホテルまでの道筋を描いた。


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その日を境に浩介と敦美は男女の付き合いを始めた。仕事帰りやジムで一緒になった日は食事を一緒にとってそのあとは飽きるまで身体を重ねる日々。敦美の口から「結婚」の言葉こそ出なかったものの、「浩介って来年30歳になるんだよねぇ…。」と二人ベッドで微睡んでいた時に敦美が胸の上で呟いた言葉が重く圧し掛かっていた。浩介が30歳になると敦美は28歳になる。子ども好きで保育士をしている敦美。お兄ちゃんと妹の二人きょうだいを育ててみたいと話していた敦美。浩介はそろそろ覚悟を決めなければと思ったまま、季節はもうすぐ冬を迎えようとしていた。

「浩介先輩、今週末の予定空いてないっすか?」10月の連休明け、後輩の孝志からいきなり声をかけられた。「いや、合コンなんですけどね、人数足んなくて。先輩今フリーっしょ?お願いしまっす!」そういえば敦美と付き合っているとは同僚にも伝えていなかったし、孝志は知る由もないだろう。浩介は苦笑して「何時から?」と返事をした。敦美には仕事の付き合いで飲みに行くとだけ伝えればいいだろう。何も期待なんかしない。その場をただ適当にやり過ごして孝志の顔を立ててやればよいだけだ。


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予定外の外出や来客が重なり、浩介が仕事場を出たのは20時過ぎだった。孝志に「21時までには着くと思う。」とメールをして、ちょうど到着した電車に乗り込んだ。遅い時間にも関わらず車内は混雑していたが、明日からの休みと給料日とが重なり、華やいだ雰囲気が充満していた。ドアに近い場所に立って二駅過ぎた頃、孝志からのメールに気付いた。「先輩、早く来てください。つーか来なくてもいいっすけど。今夜の合コン、レベル高いっすよ!まだ女の子もひとり来てないので、そっち先輩に任せます!」なんだよ、来なくていいなんてよ。浩介は苦笑して携帯を閉じた。どうせ今夜は孝志たち後輩に任せて、所詮人数合わせの自分は適当に周りに合わせて飲んでるだけでいいはずだ。孝志たちのはしゃいだ姿を思い浮かべて思わず頬が緩む。とりあえず駅に着いたら急いで駆け付けよう。と、ドアが開いて降りようとしたとき、同時に降りようとした女性と肩がぶつかり彼女の鞄を落としてしまった。鞄から小物が零れ、降車した人の波に消えそうになる。浩介は「…っちょっと!、すいません!落し物がっ!」と声を荒げながらそれでもなんとか彼女の荷物を拾い上げた。

「えっと…すいませんでした。急いでたんで、気付かなくて…。とりあえず全部拾ったとは思うけど。もし何か失くしたものがあったら連絡ください。これ、俺の名刺です。」別に下心も打算も何もない、ただ本当にすまないと思ったからこその社用名刺を彼女に渡し、「ごめんなさい。ちょっと急ぐので。あ、裏に携帯の番号とメールも書いてあります。ホント、すいませんでした!。」頭を下げ彼女の返事を聞かずに立ち去ろうとした。


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(2014.10.22~2015.1.22)